[2008.4.1更新]

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2008年4月の5冊

 

 

『感性の起源 : ヒトはなぜ苦いものが好きになったか』 [請求記号: 080/1772/12]

都甲潔著 中央公論新社 (中公新書)

 著者の都甲潔さんは、バイオエレクトロニクスという新しい学問の最先端を走る研究者です。 味や匂いといったおよそ主観的な感覚世界を客観的な指標で表現することを目指し、さらにはその測定センサーの開発を 仕事としている人です。生物の感覚器官は刺激の性質に応じてそれらを弁別するように発達してきたわけですから、 刺激の物理的特性や強度の組み合わせでさまざまな感覚体験が決まると誰もが考えるでしょう。しかし、どうも事はさように 簡単ではないようです。著者によると、例えば麦茶に牛乳を加え砂糖を入れるとコーヒー牛乳の味になるそうですが (一度試してみてはいかが?)、麦茶とコーヒーでは含まれる化学物質に相当大きな開きがあります。そうすると、 人間の味覚の側に、物質界の秩序そのものの反映ではない、複雑な化学物質の構成を独特の仕方で分節する仕組みがあることになり、 人間の個々の感覚器官に対応する感性を構成している次元とは何なのかを科学的に探る必要性が生まれます。本書の後半では、 とくに味覚や嗅覚に関してのこのような探究が紹介されていて、当の私たち自身ですら自覚的でない、 人間の感性の基盤について多くのことを学ぶことができます。特に、視覚や味覚にはその感性のモダリティに特化した ことばがあるが(例えば、視覚は赤い、明るいなど、味覚は甘い、酸っぱいなど)、匂いにはそれがなく、 他の感覚からの借り物か(さわやかな、濃厚な、など)、具体的なものを表すことばを使う(りんごの匂い、バラの香りなど) という指摘に、私はアッと驚きました。それがなぜなのか、匂いという感性を具体物に還元しないで、 比較的少数の次元で表現することは可能か、といった問題をもっと知りたければ、ぜひ本書をお読みください。
 現代科学の最先端で行なわれている上記のような仕事が、文系の該博な知識もまじえて語られる本書の後半も魅力的ですが、 私はそれ以上に、前半で語られる生物にとっての「感性」なるものの発生的起源の話に、心理学者として大きな刺激を受けました。 例えば、粘菌のような単細胞生物(集まって細胞集合体となり、多細胞の生物にもなる)では、細胞膜(体表)によって外部と 内部が隔てられていますが、外部から体表にやって来る刺激には内部の維持に都合のよいものもあれば、都合の悪いものもあるはずです。 そうすると、このような原始生物でも、生き延びるために両者を選別して、それぞれに異なった反応をする原初的な仕組みが備わること になります。粘菌の場合は、酸味のある化学物質を忌避する反応のあることが知られていますが、この場合の「反応」とは、 体表の刺激部位から内部の原形質流動が波のように広がっていき、それが粘菌全体の形状を変えて、結果として酸味刺激から離れることを さします。そう、粘菌は酸味刺激が「嫌い」なのです。この体表面での刺激の弁別受容と生物内部での変化こそ、感性の起源であると 著者は主張します。体表面に目や耳や鼻などの感覚器官と手足などの運動器官(外壁系あるいは感覚―運動系と言います) が高度に分化した人間のように複雑な生物であっても、基本は同じであって、私たちが何かを感じるということは、 必ず外部刺激の弁別と、その反響としての身体内部の内臓器官や平衡器官(内臓系あるいは情動―姿勢系と言います)の変化の両方を (そのどちらかがどんなに微細なものであったとしても)同時に体験することなのです。私は、自分の心理学研究のテーマとして、 「認知と情動(あるいは理性と感性)」の発達的関係について長い間、考えてきたのですが、この本の前半部分を読むことによって、 思わぬヒントが得られたような気になりました。
 このほか、生物学者や解剖学者が書いた類書に、 『 心の起源』(木下清一郎、中公新書)、 『 胎児の世界』(三木成夫、中公新書)があります。 いずれも新書の中ではかなりむつかしい本ですが、人間の心の発生を全地球史的視点から語っており、目を見開かれる思いがします。 とくに後者は深い生命哲学を背後に有し、名著の誉れ高い本です。

(学術情報センター長 加藤義信(文学部児童教育学科))

 

『私たちはどうつながっているのか : ネットワークの科学を応用する』 [請求記号: 080/1894/12]

増田直紀著 中央公論新社 (中公新書)

 ロック歌手矢沢永吉を御存知ですか?多くの著名人が影響を受けています.知らない人は[1]を読んでみてください. 彼が登場するCMの見方が変わります.最近はS社(家電,飲料)のCMにも登場しています.“矢沢, ○○見て気づきました. あれね××も良くないともったいないよね.・・・聞いている? 矢沢,気づきました.”私はこのCMを見て,中身(○○) と発信(××)のバランスが大切なことを言っていると,研究室の学生に紹介しました.このCMについては,別の切り口で, 朝日新聞のコラムで天野祐吉氏も書いています.是非読んでください[2].
 さて,皆さんは高校時代に,自己分析をして,理系タイプと文系タイプとに分かれて進路を選択してきた人が多いと思います. この進路選択方法は国際社会では主流ではないようです.どうも我が国独特な方法のようで,一部の国からは,自分の可能性を狭く するような選択をしているという言われることもあります.矢沢風に語るならば“理系(文系)タイプ見てきづきました. あれね文系(理系)タイプも良くないともったいないよね”でしょうか.この文系と理系の離れすぎの問題は明治時代から, 寺田寅彦(夏目漱石の高弟の物理学者)に指摘されています [3].最近,日本はJAPAIN(痛い日本)と皮肉られています [4]. 私には皮肉されている問題の根幹が離れすぎにあるような気がします.100年近くたっているので,そろそろ解決できたら良いですね.
 では,新しいタイプの自分を創造するにはどうすれば良いのでしょうか,紹介図書には創造のノウハウよりも理論がわかりやすく 紹介されています.一部を紹介しましょう.「三人寄れば文殊の知恵」といいますが,これが機能するのは,実は3人が別の情報や 価値観を持っている場合に限られます.同じタイプの人は同じ価値観を持ちがちで,衝突も少なく過ごしやすいかもしれません. しかし,似た情報しか交換できないので,新しい発見はあまりありません.KYに縛られ周囲の空気を読むことに一生懸命になっている よりも,意識的に違ったタイプの人や本と交流することの大切さを,科学的に説明しています.
「己を知り,他人を知り,そのつながり方を知って,ひとつ上の自分へ!」(紹介図書の帯).

[1]矢沢永吉,『 成りあがり : 矢沢永吉激論集』,角川書店,1980
[2]天野祐吉,「CM天気図 : 聞いてる?」, 朝日新聞 朝刊,2008年3月11日.
[3]寺田寅彦,『 寺田寅彦随筆集』,岩波書店,1964.
[4]“Japain”,Economist,2008年2月21日.

(学術情報センター長補佐 奥田隆史(情報科学部地域情報科学科))

 

『雪舟の「山水長巻」 : 風景絵巻の世界で遊ぼう』 [請求記号: 721.3/Sh43]

島尾新著 小学館

 自分の涙で本物そっくりの鼠の絵を床に描いた、というエピソードで有名な雪舟(室町時代後期:1420年〜1506年) の作品の中でよく知られているものの一つに、「山水長巻(四季山水図巻とも)」(山口毛利博物館蔵)と称される風景絵巻があります。 その一部が、よく美術の教科書に載ることがあるので、ご覧になれば「ああ、あれか」と思われる方もたくさん居られるかと思います。 この絵巻物、実物は縦寸40cm、長さは実に16mにも達する代物で、すべてみようとすると、普通の部屋では広げることなどできるもの ではありません。
 島尾新『雪舟の「山水長巻」:風景絵巻の世界で遊ぼう』(小学館)は、この長大な「山水長巻」を手軽に見ることを可能とした 絶好の手引き書です(「山水長巻」全体を収めたものは本書も含めて僅かであるとのこと)。この本の縦寸が24cmなので、 いささか圧縮はされていますが、巻首から巻末まで「山水長巻」を楽しむことができます。見開き2頁での鑑賞が基本で、 上下のスペースに美術史上の関連知識などとともに、雪舟とこの「山水長巻」を楽しむ上での鑑賞のポイントが掲載されており、 まさに「風景絵巻の世界で遊」ぶに相応しいものです。
 水墨画(「山水長巻」は淡い彩色を施した墨画)の世界って、結構「癒し系」ではなかろうか、と思っている方たくさん居られるか と思います。そういう方に是非手にとって眺めて欲しい1冊です。

(学術情報センター図書館 米井)

 

『一戔五厘の旗』[請求記号: 914.6//283]

花森安治著 暮しの手帖社

 本書を知ることになったのは、『 戦後思想の名著50』(岩崎稔ほか編 平凡社2006.2)という本 で取り上げられていて書名を憶えていたちょうどその頃に、偶然、「 朝日新聞」読書欄の寄稿コラム「たいせつな本」で 音楽評論家の黒田恭一氏がこの本を紹介している(2006/12/10朝刊)1)のを読んだのがきっかけでした。
 新入学生の皆さんの多数が平成生れとなった今日では「一銭五厘」という言葉が含意しているイメージや意味は必ずしも 自明ではないかもしれませんが2)、この語が用いられる場合はおそらく“市井の、名もない、庶民の、立場をとる” という考えが込められているといって差し支えないかと思います3)。本書の著者である花森安治氏もそのような姿勢で仕事を してきた人であるといえましょう4)。
 著者は雑誌「 暮しの手帖」の編集長を創刊以来約30年間にわたって続けた人で、 本書は同誌に掲載された文章から主なもの29篇を選んで収録したものです。書名は収録中の1篇からとったのですが、 内容は「一銭五厘」に限らない、日本の社会や日本人の生活の中にある課題を広範に採りあげて論じています。
 力強さを湛えながらも決して押し付けでない、堂々と自己の考えを述べて怯むことのないこれらの文章を読むと、 まじめに生きるとはどういうことか、を真正面から問われているように感じます。
 巻末の「あとがき」では、この本がつくられるまでのいきさつのほか、著者自身の手になる造本についても言及していて、 デザイナー・書籍装釘家としての著者の考えの一端をうかがうことができます。
 なお本書は、第23回(昭和46年度)読売文学賞(随筆・紀行賞)を受賞しています。


1) 新聞各紙の書評記事は、たいていの場合その新聞社のWebサイトにも掲載されています。黒田氏の文章は http://book.asahi.com/mybook/TKY200612120344.html でも読むことができます。(ただし写真は省略されています。)
2) 日本語の辞書辞典類をいくつか調べてみましたが、意外にも掲載している本は多くありませんでした。なお辞書ではありませんが、 『 戦中用語集』』(三國一朗著 1985.8 岩波新書黄版310)などで 語意に触れています。
3) この語を書名に含む図書は少なくありませんが、国立国会図書館蔵書検索・申込システム (NDL-OPAC ; https://ndlopac.ndl.go.jp/F/) で調べたところ多くは私家版でした。商業出版物であって、しばしば紹介されるものとして 『 一銭五厘たちの横丁』(児玉隆也著、桑原甲子雄写真 2000.4 岩波現代文庫社会12(晶文社1975.2の再刊))があります。
4) 「銭」から金偏(かねへん)を外しているのも、著者の考えだろうと思います。なお、花森安治の人物と業績については、 『暮しの手帖保存版V「花森安治」』(「 暮しの手帖」臨時増刊号通巻341号 暮しの手帖社2004.1)などがあります。

(学術情報センター図書館 鋤柄)

 

『赤毛のアン』  [請求記号: 080/198a/5]

ルーシー・モード・モンゴメリ著 新潮社 (新潮文庫)

 100年前の1908年、「赤毛のアン」はカナダで出版されました。私は子どもの頃この本をそれほど昔の話ではなく、 すこし前の話のようにイメージしていました。遠い国の話だからでしょうか? でも何よりアンの生き生きした存在感のせいでしょう。
 子どもにとってこの本の一番の魅力は、主人公が少女であり、印象的なエピソードがあることだった気がします。しかし今、 大人の目線で読んでみると、また違った味わいがあります。時代背景はその一つで、 「お葬式みたいだからまだ誰も教会で結婚式をあげていないけれど、残念だ。」という会話など、面白いところがたくさんあります。
 アンのシリーズは10冊ありますが、私はアンの世界を終わらせたくなくて、シリーズの最後「アンの娘リラ」は読まずにいたのです。 けれどそろそろ、この機会に読んでみようかと考えています。
 ちなみに、今年は100周年記念として新潮文庫から改訂版が出版されています。同じ村岡花子訳ではありますが、 お孫さんがいくぶん訂正を加えたそうです。どこが変わっているのでしょうね。

(学術情報センター図書館 平田)