[2008.7.1更新]

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2008年7月の5冊


外国語で書かれた図書特集

外国語で書かれた図書特集

 

 

『La honte』 [請求記号:954.7/E68]

Annie Ernaux著 Gallimard (Collection Folio)

 アニー・エルノー(Annie Ernaux)という作家をご存知でしょうか?1940年にフランスはノルマンディ地方の田舎町の小さなカフェ兼食料品店の娘として生まれ育ち、長じて大学を出て高校の文学の教師となり、1970年代半ばから自伝的小説を次々に発表するようになった現代の作家です。日本では1993年にはじめてその作品が紹介され、現在、6冊の邦訳書が出ています。二番目に出た小説『場所(La place)』を読んで以来、私にとってこの作家は特別な存在となりました。
 フランスの小説というと、パリの、あるいは地方の中心都市の富裕層や知識階級の世界が描かれるのがふつうでした。19世紀以来フランスでは(そしてヨーロッパの他の国々でも)、小説というジャンルは、都市の中産階級以上の読者に向けて知識階級に属する書き手が生み出す商品という性格を有していましたから、このことは当然のことでした。しかし、その自明なことが、明治以来、遠い東洋の島国で翻訳を通して彼の国の小説を読んできた私たちに、必ずしも認識されていたとは言えません。私も例外ではありませんでした。 アニー・エルノーの小説を読んで心底びっくりしたのは、この点に関わります。父の一生を振り返った小説『場所(La place)』、母の生涯を描いた『ある女(Une femme)』>、そして、翻訳はまだなく、ここで紹介する『La honte』(適切な訳が思いつきませんが、「恥ずかしく思うこと」あるいは「汚点」が近いでしょうか)は、いずれも、他のフランス近現代小説に登場する人々とはまったく違った階層に属する人々の世界を描いています。
 『La honte』は、アニー・エルノー自身の12歳のときの衝撃的な出来事の回想から始まります。6月の晴れた日曜の午後、母の小言がきっかけとなり、普段おとなしい父がカッとなって鉈(なた)を振り上げ母を殺そうとします。怒鳴り声と叫び声、その後に続く果てしない母と娘のすすり泣き、そのときから12歳の少女の中に芽生えた、深く自分の家族や自分の属する階級を恥じる感情こそが、この小説の中心主題です。優秀な学業成績によって両親の生活世界から離れ、今はパリ近郊に住む知識階級の一員となった作家にとって、この出来事は遠い過去のことですが、そのとき以来、身体の中に深く巣食うことになった感情は今も過去形では語りえないものなのでしょう。その感情の由来を探るために、作家はかつて自分の育った生活世界を、克明に記述しようと試みます。小説の前半は、1952年のフランスの田舎町(人口7000人)の生活のエスノグラフィー、後半は子ども時代に通ったカトリック学校の生活描写が中心となって、12歳の少女の生きた日常世界が次第に浮かび上がっていきます。ただ、アニー・エルノーは、凡百の小説家がするようにノスタルジックに子どもの心象世界を語るようなことは、決してしません。12歳の少女が何を感じ何を考えたかでなく(その再現は原理的に不可能なはずなのに、可能であるかのようにそれを〔それのみを〕試みている自伝小説がなんと多いことでしょう!)、1952年の少女を取り巻く世界がどんな経済的・物質的条件に規定され、どんな生活規範、言語環境、社会的事件、流行、娯楽を人々が共有する世界であったかを、詳細かつ淡々と語っていきます。そして、そこに現れた世界は、驚いたことに、私がかろうじて記憶の中に留めている1950年代の日本の田舎町の小宇宙にそっくりなのです!大人も子どもも標準語から遠いことばを話し(アニー・エルノーの父は、しばしばavoirやêtre〔英語のhaveとbe動詞に相当〕の活用を間違えたといいます)、町内のどの家の事情も互いに筒抜けで、水洗トイレはおろか水道もなく、庭で鶏を屠っていた生活、住民のほとんどが団体旅行や修学旅行でしか自分の町を離れたことがなく、互いに親密ではあっても、外の広い世界の存在を知りはじめた若者にとっては息の詰まるような世界。これは、あまりに私が肌で知っている「前近代の日本」に近く、観念の上で憧れた「個人と個人の契約からなる近代市民社会としてのフランス」からは遠い世界です。フランス社会が均質な近代社会でなく、20世紀を通じて前近代的なものを斑(まだら)のように農村や地方の小都市に残しながら発展を遂げた資本主義社会であること、そして、それはそっくり日本社会が少し遅れてたどった道であることを、私は改めてこの小説を通して教えられました。アニー・エルノーは、フランス近現代小説の中心舞台からはずれた階級の生活を描くことによって、かえって世界的には普遍的に見られる社会や人間のあり方を描くことができた、稀なフランス人作家と言えるでしょう。
 アニー・エルノーの小説のフランス語は、構文やレトリックの水準から言えば決して難解ではありません。しかし、かなりの語彙力がないと読めません。私も電子辞書を傍らに置いて読みました。したがって、『La honte』の前に、翻訳のある『 場所(La place)』や『ある女Une femme)(邦訳はいずれも早川書房、原著はいずれもGallimardのCollection Folio)を原著で読むことを薦めます。

(学術情報センター長 加藤義信(文学部児童教育学科))

 

『The Catcher in the Rye』 [請求記号:933//1632]

J.D. Salinger著 Little, Brown

お薦めするポイントを3つ挙げます。ひとつは、英語の方言的表現と言われている〜and all(例 he’ s my brother and all.)の表現がいたるところに使われていることです。音調を整えるだとか、明言を避けるとかとあるそうですが、この言葉の意義は良くわかっていません。その場その場で適当に訳す必要があり、これを翻訳するのは結構困難なことだと思います。そこで、二つ目のポイントですが、この本は野崎孝、村上春樹などにより翻訳されています。結構違っているので、比較すると面白い発見があると思います。そして、最後の三つ目のポイントは、もちろん、内容です。大人の世界とは、矛盾や嘘が平気でまかり通っているところもあり、必ずしも純な世界ではありません。主人公も大人になることに反発し子供であり続けたいと悩んでいます。とここまで書くと、主人公はとても純粋な心を持っていそうですが、実際に読み進めていくと、おせっかいで、自分勝手で、ひとりよがりの性格で、とても好きにはなれません。もう、読むのを止めようかと思っているところで、つい許してあげてもいいかなと思う出来事があり、あれほど納得のいかない主人公の性格が受け入れられるようになってしまいます。この印象のギャップを楽しんでください。また、最初の2つのポイントを踏まえ、原著で味わうのがやはり一番かと思います。英語自体はそれほど難しくありません。

(学術情報センター長補佐 森田久司(外国語学部英米学科))

 

『Modeling, Analysis, Design, and Control of Stochastic Systems』 [請求記号:417.1/Ku29]

Vidyadhar G. Kulkarni著 Springer-Verlag

 このコーナーでは自分の専門とは直接関係ない本を紹介していました.しかし,今回は外国語で書かれた本が推薦本のテーマです.ですが,私には,外国語で書かれた本とのつきあいは専門や実生活や趣味との分野のものに限られています.というわけで,今回は,推薦図書(専門分野と関係があります.すいません)の素晴らしさを書くのではなく,推薦図書が縁となって, University of North Carolina, Chapel Hill 校(UNC)とDuke University に滞在することになったエピソードを紹介しようと思います.
 2001年夏,文部科学省の在外研究(教育内容改善に関する若手教員等の派遣プログラム#)の募集があり,メリーランド大学カレッジパーク校 (ワシントンD.C.近郊に位置し,地下鉄駅名にもなっています)でお世話になることで,申請書を作成・提出しました.しかし,9月の同時多発テロ事件やその後の炭疽菌郵便事件の間接的影響により,留学先を変更する必要が出てきました.
 そこで,推薦図書の著者であるVidyadhar G. Kulkarni(通称VGK)先生に,UNCで受け入れてくれるだろうかとメールを書いたのです.VGKとはその時には,直接の面識はありませんでした.ただし,推薦図書(研究室の輪講で使っていました)の誤植をお知らせしたりして,インターネット上では意見交換をする仲でした.
 VGK先生から,すぐに,メールの返事が届きました.内容は,UNCはオフィスが手狭だから,同じエリアの私立大学Duke大学にオフィスを構えてはどうかという内容でした.結局,近くにあるDuke大学のKishor S. Trivedi先生の研究室にオフィスを世話していただくことになり,私の在外研究先は決定し,研究を推進することができました.今では,奥田研究室では,推薦図書をVGK,Kishor先生の著書[1]をKSTと称し,輪講テキストや研究参考図書として利用しています.学部4年の時 (‘80年代),恩師の講義でテキストだった名著[2]が,私の研究の原点となったように,VGKやKSTが研究室学生の原点となってくれるような予感がします.
 余談ですが,Duke大学のあるDurham市は,野球映画[3]の舞台であったと,現地で気がつきました.原題がBull Durhamなのに,邦題が『さよならゲーム』では気がつきませんでした(もちろん観ていました).当時,名古屋アメリカンセンターの館長(野球好きで,兄弟がノースカロライナに住んでいました.これもまた縁です)は,私が野球好きでDurhamに行ったのだろうと最後まで疑っていました.館長が日本を離れる際に,私に送ってくれた本[4]は,野球の本でした.本は友人であるという言葉もあります.こんな風に本と人と町が繋がっていくのですね.

#このようなプログラムは応募年齢上限が制限されていたり,応募倍率が高かったりする場合も多いです.ですが,倍率がなぜか低い年もありますし,誰かが当たります.君かもしれません.どしどしアプライしましょう.外国に留学するために,アルバイトに時間を割くと,貴重な学習時間が減ってしまいます.まずはアルバイトではなく,学生用留学助成制度などの情報を収集して,自分の学習成果を利用して,留学できるような作戦を考えましょう.

[1]Kishor S. Trivedi, Probability and Statistics With Reliability, Queuing and Computer Science Applications,Wiley-Interscience, 2001.
[2] Ronald A. Howard, Dynamic Programming and Markov Processes, echnology Press-Wiley, Cambridge, Massachusetts, 1960.(ペーパブック復刻版が2007年に発売)
[3] ロン・シェルトン監督,『さよならゲーム』(原題 Bull Durham),1998.ケヴィン・コスナーとスーザン・サランドンが主演です.
[4] Robert Benson,The game : one man, nine innings, a love affair with baseball,J P Tarcher, 2001.

(学術情報センター長補佐 奥田隆史(情報科学部地域情報科学科))

 

『日本僑民在上海 1870-1945』 [請求記号:334.51/Ta55]

(日)高橋博文、陳祖恩著 上海辞書出版社

 わが国は古代から中国と大きな関わり合いを有してきましたが、この100年余り、とりわけ1945年以前における関わり合い方は、現在及び今後の日中関係を考えていくうえで、避けて通ることができない重要なものであることはよく知られているかと思います。1945年以前において、多くの日本人が関わった中国の土地といえば東北三省及び内蒙古自治区の東部をイメージする人も多いかと思います。しかし、中国大陸における当時の日本人の生活の場は東北地区に限られていたわけではありません。中国各地の主要都市、或いはまた、こんなところにも、というような草深い土地々々にも日本人は生活していました。そんな中国のそこかしこの中で、特に当時の日本と日本人にとって重要な街であったのは、長江デルタに位置する国際都市、上海 Shanghai でした。
 上海は1840年の対英戦争(アヘン戦争)の敗戦の結果開港場とされ、その門戸を外国人に開きますが、そのごく初期から日本人は上海という街に関わってきました(1862年に高杉晋作が上海を訪れていたことはよく知られていることかと思います)。文学に興味のある方なら、芥川龍之介・横光利一・堀田善衛などの文学者と彼らが書いた上海に舞台をとった作品をいくつかはご存知のことかと思います(芥川『上海游記』・横光『上海』・堀田『 上海にて』など)。今回紹介する本『日本僑民在上海(1870-1945)』は、そうした日本人と上海の関わりを19世紀の60年代から、1945年日本の敗戦により日本人居留民社会が終止符を打つまでの間の歴史をビジュアルに纏めた本です。全体は第1章「政治活動」・第2章「社会活動」・第3章「文化活動」・第4章「経済活動」と附録(年表・統計など)によって構成され、第1章から第4章は、上海で、或いは国内で刊行された上海関係の本からとられた図版や個人所蔵の写真を中心に簡単な解説が(中文で)付されています。どこかで以前見たこともあるような写真も掲載されてはいるのですが、1冊に纏まって上海の日本人の歴史を知ることができるというのは極めて便利なものでしょう。ちょっと驚きなのは、40頁に掲げてある写真で、日本人住宅の中を写したものですが、畳に火鉢、それに和箪笥が置いてある風景なのですね。国際都市の一角においても日本国内のライフスタイルにこだわっていたという点は、今日でも日本人の国際化を考えるうえで示唆的なものといえるかもしれません。
 1941年には10万人を超える人口を擁していた日本人居留民社会にも、戦争が苛烈化していく中で動揺し不安がひそやかに拡散していくことになりますが、1945年5月、(結果的には)その最後を飾る、あたかも蝋燭の火が消え去る前の一瞬の光芒にも似たイベントが日本人の手によって企画され実施されます。当時、上海にいた服部良一の指揮、上海交響楽団の演奏によるリサイタル「夜来香ラプソディー」。歌うはアジアの歌姫の一人、李香蘭。
 服部良一といえば「東京ブギウギ」・「青い山脈」などのヒット曲(彼の代表作は『 服部良一 : 僕の音楽人生』(コロムビアミュージックエンタテインメント)で聞くことができます。)で知られ、日本のポピュラー音楽史を語るときには欠かせない人物ですが、彼当時上海の陸軍報道部で仕事をしていました。彼にとって上海という街は、彼の音楽人生を語るうえで大きな意味を持っていましたが、そのことについては上田賢一『 上海ブギウギ1945 : 服部良一の冒険』(音楽之友社)が詳しく触れています。当時の日中間の歴史に翻弄された李香蘭こと山口淑子さんについては、劇団四季のミュージカルで、あるいは最近では同名のTVドラマでよく知られているところですが、ここでは自伝『 李香蘭私の半生』(新潮社、藤原作弥氏との共著)・『 「李香蘭」を生きて』(日本経済新聞社)などを挙げておきたいと思います。また、2001年には映画史家の四方田犬彦氏らの手によって研究書『李香蘭と東アジア』(東京大学出版会)も刊行されています。
 在上海の日本人にも、また中国の人々にも好評であった(といわれる)このリサイタルについては、資料も失われ詳細を窺う手段もないようです。今日の我々ができるのは、当時録音された音源(『 李香蘭山口淑子全曲集』(コロムビアミュージックエンタテインメント)など)を聞きつつ、思いを当時に馳せることだけなのでしょう。
 2010年には上海で国際博覧会が開催されます。内外の多くの人々が上海を訪れることでしょう。日本からも多くの人が上海の訪れることかと思います。そこでの交流が豊で稔りの多いものであることを願ってやみません。

(学術情報センター図書館 米井)

 

『Atlas ilustrado de la historia de Madrid』 [請求記号:236/L88]

Pedro López Carcelén著 La Librería

 スペインの首都マドリードの都市形成史を、豊富な図版を使って紹介してくれる本です。現在、人口400万人を越える大都市圏へと発達したマドリードも、その起源は、9世紀にイスラム教徒によって、マンサナーレス川の畔に築かれた小さな砦にすぎませんでした。創設後間もない頃の9世紀末(12〜13ページ)から、11世紀(16〜17ページ)、13世紀末(20〜21ページ)、14世紀末(22〜23ページ)、15世紀中頃(26ページ)、16世紀初頭(27ページ)、1656年(30〜31ページ)へと、各時代の情景図や地図を順に見ていくと、マドリードは、最初の砦を核としてしだいに東へと、かつ同心円状に発達していったことがわかります。
 とくに16世紀初頭から1656年にかけての比較的短期間に、マドリードの市街地は飛躍的に広がりましたが、これは、1561年に宮廷が置かれ、スペインの首都となってから、市外からの人口流入のペースが速まったことと関係しています。拡大した市街地のさらに東では、17世紀以降、王室の離宮ブエンレティーロの建設が始まりました。本書には、マドリードの古地図に基づいて描かれた1656年(34〜35ページ)と1785年(46〜47ページ)、そして19世紀初頭(49ページ)のブエンレティーロの情景が掲載されています。
 このうち1785年の情景図を見ると、広大な庭園に配置された宮殿、劇場(5)、厩舎(10)、自然史博物館(16)、王立陶磁器工場(17)、猛獣舎(18)、闘牛場(19)、植物園(21)、王立天文台(22)といったさまざまな建物から、当時の王侯貴族の趣味や娯楽、啓蒙期における科学や植民地への関心などをうかがい知ることができます。その後、プラド美術館となった自然史博物館などを除き、現存する建物はわずかですが、広大な敷地は19世紀後半に公園として市民に開放され、現在に至ります。
 マドリードの都市形成史においてひとつの画期をなすのが、1860年のマドリード拡張地区計画です。旧市街を囲む広大な拡張地区が、整然とした格子状街路で計画されていることがわかります(56ページ、これまでの鳥瞰絵図とは異なり、北が上に位置します)。このような計画へと国が踏み切った理由のひとつに、約80kmも離れた水系から、「イサベル2世上水道」が引かれたことがあるようです(52ページ)。巨大化する都市の存立にとって、大容量の水の確保は欠かせませんでした。
 拡張地区計画以降、ブエンレティーロに面したプラド通りが、拡張地区を貫いてさらに北の郊外へと伸びていきます(57ページ)。これが、カステリャーナ通りで、20世紀以降は、マドリードの交通の動脈になるとともに、70ページの下の図にあるように、新省庁地区(13)などの公共機関や学術機関、名門サッカークラブチームのホームスタジアム(5)、高層ビル群(8〜12)といった巨大建築が建ち並ぶなど、沿道の景観は劇的に変化していきます。
 同じ20世紀、マドリードの市街地はどのように拡大していったのか、その推移については、1916年(65ページ)、1937年(67ページ)、1963年(69ページ)、2001年(71ページ)の各地図を、順を追って見ていくとよくわかります。現在も膨張し続けるマドリードですが、本書は、そこに至るまでのプロセス−都市空間や景観が歴史的にどのように創出され、変化してきたのか−を知る上での格好の入門書になり得ると思いますし、親しみやすい多数の図版だけでも楽しめるのではないでしょうか。

 ついでに、日本語で書かれた本で、最近読んで面白かったものを1点だけ紹介しておこうと思います。それは、野口昌夫『 イタリア都市の諸相 : 都市は歴史を語る』(刀水書房)で、著者は、イタリアの建築史・都市史をフィールドとする研究者です。
 記述は平易で読みやすく、だからといって内容が浅いわけではなく、イタリアにおける建築物と都市空間の関係について、数々の事例を引用した興味深い指摘がなされます。なかでも、ヴィジェーヴァノのドゥカーレ広場と、広場に面して建つ聖堂のファサードの関係に興味を覚えました(45〜47ページ)。
 そこでは、本来、聖堂の一部であるファサードが、形態的に広場に一体化することが優先され、そのために聖堂本来の形態や内部空間が損なわれています。これは、建築物は都市空間に従属し、都市景観に寄与するという著者の主張を説明する格好の事例だと思います。日本人の目から見ても魅力的なイタリアの都市空間や景観が形成される背景には、どうやら都市を舞台としてとらえる発想があるようです。
 本書には、イタリアの建築用語が頻繁に出てきますが、その都度、日本語の意味が添えられています。ちょっとしたことのようですが、そのおかげで、わりとスムーズに読み進めることができます。ぜひお薦めしたい1冊です。

(学術情報センター図書館 笹野)