[2009.7.1更新]

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2009年6月の5冊


 

 

『ろまん燈籠』 [請求記号:913.6/D49]

太宰治著 新潮社(新潮文庫) 改版 2009年

 6月といえば鮎の季節ですね。鮎釣り解禁のニュースを耳にされることもあるでしょう。「鮎」、「若鮎」と名付けられた和菓子も店頭に並び、私たちを楽しませてくれます。
 みなさんのよく知る作家、太宰治に「令嬢アユ」という作品があります。今から約70年前、昭和16(1941)年の6月に発表されたものです。「好色の青年ではない」、「迂闊なはう」、「野暮」、と語り手「私」によって形容される22歳の青年「佐野君」は、大学も落第しそうな雰囲気で、「もうかうなれば、小説家になるより他は無い」といって伊豆に出かけます。折しも鮎釣り解禁の6月1日。佐野君はまったく芳しくない釣りの成果とは裏腹に、「綺麗」な「令嬢」と巡り会い、「結婚したい」とまで思うようになります。白や黄色のドレスを身にまとい、コスモスの造花を髪にかざしてあらわれる彼女は、やさしい心の持ち主でもありました。けれども、昭和16年という時世に、そのような華やかな様子の彼女の生業とは…。
 帰京して「私」にほのめかされるまで、佐野君は彼女の背景などまったく意に介しませんでした。「いいひと」はいい。佐野君はいわゆる世間知らずの人ですが、それだからこそ直覚できる純粋な本質の在処について、この話は伝えています。では、そのような非俗の人佐野君は小説家に向いているのでしょうか?どうやら太宰の答えは「否」のようです。
 鮎釣りをめぐるユーモラスで切ない恋の舞台となった6月は、太宰自身の生まれ月でもありました。彼は今からちょうど100年前、明治42(1909)年6月19日に青森で生まれたのです。そして、「令嬢アユ」から7年後の昭和23(1948)年6月19日、39歳の誕生日に東京三鷹の玉川上水で、心中相手とともに亡骸となって発見されました。この日は太宰の作品名にちなんで「桜桃忌」と呼ばれています。
 「太宰生誕100年」にあたる今年、さまざまなところで記念の催しが行われます。本学の図書館でも今月から10月にかけての4ヶ月間、特集展示をいたしますから、ぜひ、ご覧ください。そして、10月14日(水)には記念講演も予定しています。お楽しみに。

(学術情報センター長 宮崎真素美(日本文化学部国語国文学科))

 

『広田弘毅 : 「悲劇の宰相」の実像』 [請求記号:080/C64/1951]

服部龍二著 中央公論新社(中公新書) 2008年

 みなさんは、「広田弘毅(ひろたこうき)」という名前を聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。2009年3月にテレビ朝日系列で放映されたドラマ「落日燃ゆ」を見ながら考えてみたのですが、結局評者には、「軍部大臣現役武官制導入時の首相→東京裁判で死刑」というまさに高校日本史の試験対策で詰め込んだまったく平板な知識しか持ち合わせていませんでした(しかも、軍部大臣「現役」武官制はこのとき「導入」されたのではなく、正確には「復活」したのでした)。
 第二次世界大戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)で絞首刑となった唯一の文官・広田弘毅を描くこのドラマの原作は、言うまでもなく城山三郎の歴史小説『落日燃ゆ』(1974年)です。服部龍二(日本外交史・東アジア国際政治史)によれば、『落日燃ゆ』をはじめとする小説などで一般に流布している「悲劇の宰相という広田像」は、確かにそうした面を有していたとしても、「それだけでは広田をとらえきれない」(5頁)とされます。特に、超国家主義団体「玄洋社」との関わりについては、その「正式メンバーではない」とする城山の事実認識には誤りがあるとして、様々な資料が提示され、その結果、服部は広田に合理主義的な外交官の顔と国家主義的な「国士」としての顔という二面性を見出すことになります。「東京裁判」では証言台に立たず一切の弁解を拒んだことが美談として語られる広田ですが、本書では、様々な資料から、国際検察局の尋問に彼自身が多くを語り、また自らの極刑をめぐって不安な思いを周辺の人々に吐露する姿を知ることができます。
 とはいえ本書は、もっぱら城山批判を企図して書かれたわけではありません。一次資料を駆使した丹念な検討に基づいて広田の「実像」に迫るだけでなく、その射程はさらに、従前外務省主流(幣原喜重郎ら)と距離をとっていた広田が、1931年の「柳条湖事件」以降、期せずして「1930年代の日本外交」の中心的な地位を得るに至った点を踏まえ、まさに「広田外交」の考察を通じてこの時代を特徴づけようとした学術図書といえます。しかし他方で、新書版での出版を意識してか、その叙述は決して小難しくなく、必要に応じて情報や解説文が補われていることから、日本政治史を専門としない評者でも楽に読み進むことができました。

(学術情報センター長補佐 中田晋自(外国語学部ヨーロッパ学科フランス語圏専攻))

 

『怯えの時代』 [請求記号:080/Sh61/598]

内山節著 新潮社(新潮選書) 2009年

 連続する悲惨な事件、就職難、経済不安、政情不安、孤独化など、生きていく上でつらい現実が渦巻いています。確実に将来への不安が増幅し、絶望感が蔓延しているようです。その中で、未来への努力さえ意味をなさないのではと思う人が増えていることが気になります。
 この本は、哲学者で森と共存生活をしている著者が「怯えの背景や構造」を明確にしつつ、その解決策の糸口として「連帯」の必要性を説いています。
 そもそも「怯え」とは何なのだろう。生活や社会への不安や自身では解決できない課題への絶望感、先が見えない状況が「怯え」となっています。多くの人はその解決策を模索しているが、その糸口がなかなか見つけることができない。
 私は、この混迷の社会を救うのは世界観や物事の本質を問う「哲学」であると信じています。行き過ぎた資本主義経済により、人間がその存在価値を失い、お金が社会の基軸になっています。その原因が「自由偏重主義」で、目先の自由を求めるあまりに生きる上の大切にすべきことや、それを支える社会の役割について自覚し、努力することの重要性を見失っています。
 著者の論は明確です。社会と人間との関係や人と人との関係、自然と人間との関係をしっかり問うことが重要で、そのキーワードは「連帯」と説いています。現象に翻弄されている私たちには、明日を切り開く契機となる本です。

(学術情報センター長久手キャンパス図書館 春日井)

 

『よいこの君主論』 [請求記号:311.237/Ka16]

架神恭介・辰巳一世著 筑摩書房(ちくま文庫) 2009年

 ひとことで言うと、本書は、マキャベリの君主論を子供向けにアレンジした意訳本です。君主論は、イタリアが小国に分かれ、外国の脅威に対抗するためには強い君主による統治が必要であるという思想のもとで16世紀の初頭に書かれています。本書の趣旨は、現代のマキャベリはビジネス書として評価されているが、大人になってから読んでも遅いのではないかというところにあります。
 「目的のためには手段を選ばない」とだけ聞くと、いかにも悪らつな専制君主という印象を受けますが、その目的が国の統一・維持である場合は、君主の誤った選択は国を滅ぼすことすらあります。君主の目的(=国の維持・発展)を果たすうえでは、ときには悪らつであっても卑怯であってもリーダーの資質としては正しく、手段を誤って国に危機をもたらすことのほうが罪悪である、と本書は語っています。
 本書を見てみると、いかにも小学生向けに書かれているようですが、読んだ印象では、より良いクラスを築くという目的のもとに小学生が権謀術数を展開するところには違和感があり、君主論をビジネスのテキストにすることへの皮肉すら感じられます。
 本書に登場する小学生たちには、ある面では小学生らしいものの、全く可愛げがなく、手段を選ばないというより、相当あざといとさえ思えます。実力でのし上がる者、権力者の後継者、与えられた権力(クラス委員)といった君主のパターンとそれぞれの戦略と失敗の類型を示しつつ物語が進み、最終的にクラスを統一した君主により、クラスメイトたちにとって充実した小学校生活がもたらされるという成果につながり、あるべき君主像を示しています。
 この本のようにリーダーを目指す小学生は可愛げがない事この上なく、親からすると、このような本は子供に読ませたくない、しかし子供にはリーダーシップ能力を期待するというジレンマに陥るかもしれません。小さいころから受験勉強に追われる小学生には、さほど難しいことではないかもしれません。
 最後に、本書はビジネス書でも児童書でもなく少々ブラックな読み物として、気軽に読んでいただければと思います。そして、本書を読んだ後に、マキャベリの君主論を読んでみたらいかがでしょうか。

(情報処理教育センター 浅野)

 

『ジョコンダ夫人の肖像』 [請求記号:909//359]

E.L.カニグスバーグ 作 松永ふみ子 訳 岩波書店 1975年

 雨ふりの休日に美術館に行くとしっとりとした時間を感じます。ところで、「モナ・リザ」の絵を観たことはありますか?
 この物語は、レオナルド・ダ・ヴィンチの弟子サライ(史実にある盗み癖のある少年)が主人公です。サライは粗野で不誠実なところもあり、そのため"美術館"や"モナ・リザ"のイメージとは少々趣が違う色合いを持っています。なぜ、レオナルドにサライが必要なのか。どのように「モナ・リザ」に繋がっていくのか。楽しみに読み進めて欲しいと思います。
 訳者の松永ふみ子さんのあとがきによれば、作者は原文中"wild"という単語で芸術の魅力を表現しているそうです。もしかして、この物語を読んだ後、「モナ・リザ」に会う予定のある方は、彼女の中にひそむ"wild"も探してみて下さい。

(学術情報センター長久手キャンパス図書館 平田)