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2014年9月の5冊


 

 

『ハイブリッド・フィクション : 人種と性のアメリカ文学』 [請求記号:930.29/Y44]

 山下昇著 開文社出版 2013年

 本書は、人種と性の観点から見たアメリカ文学の研究書です。専門的な内容ですが、ナサニエル・ホーソーン、マーク・トウェイン、ウィリアム・フォークナーといったアメリカ文学を代表する作家たち(第一部)と、アフリカ系アメリカ女性作家たち(第二部)を対比的に扱っている構成と、その論じ方に特徴があるのが興味深いので、ここに紹介します。
 本書では、ホーソーン等大作家たちは、性や人種の側面から必ずしも肯定的に論じられていません。たとえば、ホーソーンは、女主人公を「多面性を有した女性として描き出してはいるものの、その思想と行動面においては保守的な女性に制限している」とし、また、トウェインについては、奴隷制や南部社会に強い批判をもっているけれども、それが作品に十分反映されていない、と結論づけています。特にアフリカ系作家ラルフ・エリスンに対する評価は手厳しいです。代表作『見えない人間』は高い評価を受けてきた作品ですが、「共産党的全体主義の否定、黒人民族主義の否定、労働組合運動や女性解放運動への揶揄など圧倒的な反体制運動批判」を結果として行っている、そして、そのことが冷戦下のアメリカでおおいに歓迎されたにすぎない、と断じています。
 一九二〇年代から現代までのアフリカ系女性作家を扱う第二部では、第一部と違い、作品は高い評価を与えられています。ハーレム・ルネサンス期に活躍しながらも批判されるか無視されるかしてきた、ジェシー・フォーセット、ネラ・ラーセン、ゾラ・ニール・ハーストン、アン・ペトリといった作家たちが再評価されます。確かに、フォーセットら黒人中産階級の知識人と見なされた女性作家たちは、その時代のいわば「反知性主義」の犠牲になったと思います。人種差別・性差別を含むこうした反知性主義の出現に対して、注意深く批判をしていくことの重要性を、彼女たちの作品は教えてくれます。
 アリス・ウォーカーの『喜びの秘密』は、アフリカ等で行われている女性性器切除をテーマとした小説で、この本をきっかけに、全世界に女性性器切除反対の運動が広がりました。しかし一方で、アフリカ女性を「受動的で無力な犠牲者」として表層的に描いている、との批判があります。本書は、こうした批判とそれへの反論をつぶさに見ながら、この小説が「多声的なテクスト」であることを指摘し、単一的な読みが誤読に繋がりうることに注意を喚起しています。

(学術研究情報センター長 鵜殿悦子(外国語学部国際関係学科))

 

① 『日本の文脈』 [請求記号:914.6/U14]※旧共同図書環
   内田樹, 中沢新一著 角川書店 2012年
② 『しなやかな日本列島のつくりかた : 藻谷浩介対話集』 [請求記号:601.1/Mo82]
   藻谷浩介著 新潮社 2014年 

 「三・一一の大震災が起こる以前は、この本は『日本の王道』というタイトルで出版される手はずになっていた。ぼくもそのための「まえがき」を書く準備をしていた。(中略)そして、三・一一が来て、文脈が変わった。(中略)「王道」だったはずのものが揺らいでいる。自分の周囲に張り巡らしていたさまざまな防御壁が、つぎつぎに破られて、いまやガラパゴスの原理はグローバル資本主義の前に、丸裸で立たされようとしている。ぼくたちを取り巻く世界の文脈が変わってしまった。もう前のようには、「日本的なもの」の原理を、心安らかに語っていることができなくなった。自分を取り巻く世界の文脈の変化を正確に読み取りながら、ぼくたちは自分の原理をみずからの力で戦い取らなければ、この先永久に失ってしまうのである。」(①まえがき/中沢新一)
 グローバル資本主義を突き詰めるとどうなるか。興味深い記述があったのでついでにもう1冊紹介すると
 「藻谷:先ほど大都市圏の「効率」重視についての話が出ましたが、限界集落も、まさに、「この場所は効率が悪いからいらない」と切り捨てられる対象になり得るわけですよね。ただ、そういう考え方を突き詰めると一体どうなるか。(中略)結局、「全員、東京に行けば?」ということになるんですが、それを言いだすと、実は「世界の中で、日本はいらない」という話になります。だって、世界各地からこの東の端の島国にわざわざ資源を運んできて、製品を作ってまたもとのところに戻すなんて、エネルギーの無駄ですよね。しかも、極めて天災の多い列島に、これだけの大きな生産力、経済力があるのは世界経済のリスクです。だとしたら、日本はなくなったほうがいいんじゃないか。」(②「第二章「限界集落」と効率化の罠」山下祐介氏との対話)
 この列島で生きるということの意味を、改めて考えざるを得ない時代になっているのは明らかでしょう。「生まれたから」という理由ではもう「牧歌的」と言われてしまう。①はそれを時間軸から語り、②は空間軸から「日本」を語り合っています。別の言い方をすれば、①は「思想」を語り、②は「実践」を語っています。
 「なるほど、そういう考え方もあるよね。」
 と、いった「考え方」をどれだけ豊かに持つことができるか。その中から自分が生きる上での「原理」と、価値観の「基準」を自分の中にしっかりと創り上げること。そして、それだけが「応用」が利く。それが「教養」というものでしょう。

       (長久手キャンパス図書館 新海)

 

『「坊っちゃん」はなぜ市電の技術者になったか』 [請求記号:910.26/Ko31]

小池滋著 新潮社 2008年

 夏目漱石の『坊っちゃん』は不思議な小説です。
 正義感の強い、カラッとした性格のはずの主人公の行動を見ると、ナイフを自分の手に突き刺す(リストカット)、2階から飛び降りる(自殺未遂)、兄の額を割る(家庭内暴力)。からかわれても普通そこまでやりますか。問題行動を起こしつつ、自分は親に愛されていないと敏感に感じ取り、代わりに女中の清に唯一心を開く。こういうのって、本当に竹を割ったような性格でしょうか。心に暗さと脆さを秘めた複雑な性格を、そうは読ませないのは、物語の「語り方」が実に巧妙な装置になっているからでしょう。流行しつつあった自然主義文学のような七面倒な内面描写は一切なし、主人公の「語り」を通して物事は一見簡単明瞭化されていきます。江戸っ子の「坊っちゃん」は赴任先松山の田舎性を軽蔑し、その意味ではまさに差別小説と言ってもいいのに、読んでいて「引く」感じがしないのも、この「語り」の効果です。
 さて人間として興味が尽きない主人公「坊っちゃん」とは本当はいかなる人物か?さらりと語られた履歴を手掛かりに推理を試みているのが、今回ご紹介する本です。「坊っちゃん」の出身校の物理学校は、現在の東京理科大学。当時、進級が厳しいことで有名で、規定の3年間で卒業できる学生は僅か。主人公はそこを並みの勉強でストレートに卒業したのだから、まさに理科系の天才です。そんな天才が、辞表を叩き付け、颯爽と東京に舞い戻って再就職したのが、東京の市電の技手。鉄道は、当時の最先端テクノロジーで、技手は現場で作業員を監督するエンジニア。エリートには違いない。しかも市電はすぐに公営化されてしまうので、坊っちゃんは再び公務員にさせられてしまうのだ、というオチがついています。さらに、なぜ再就職先を市電に設定したのか、という作者漱石の心理にまで踏み込んでいきます。
 このように本書は、実は、「鉄道」を通して日本の小説を読み解こうとする、何とも「鉄分」の多い文学エッセイです。イギリス文学研究の泰斗である著者は、筋金入りの鉄道ファンとしても有名。表題作の他にも、芥川龍之介の『蜜柑』では、なぜ蜜柑を二等列車の窓から投げることができたのかを推理したり、佐藤春夫の『田園の憂鬱』では、汽車の幻聴音は現実の音だったと反証したり、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』では、「軽便鉄道」の表現が後に削られた創作意図を解き明かし宮沢賢治論を展開します。
 作品中のキーワードを取り上げ、それを当時の世相や事実と重ね合わせて、フィクションの可能性を丹念に検証していくプロセスには、まさに上質な推理小説を読むような面白さを感じます。

(長久手キャンパス図書館 荻田)

 

『都市発達史研究 新装版』 [請求記号:290.173/I43]

今井登志喜著 東京大学出版会 2001年

 社会経済史家・今井登志喜氏(1886-1950)が1920~40年代にかけて発表した都市発達史に関する概説や研究論文を編集した本です。本書の骨格をなす「西洋都市の発達」の章を読むと、地域や国家が発展するのは、時代に適合した都市を繁栄の中心として持ち得たときで、やがてその都市が時代に適さなくなったときに衰退が始まるのではないか、そんな考え方に導かれます。
 繁栄の中心が移動する面白さが際立っているのは、中世末期から近世初期にかけての転換期ではないでしょうか。ヨーロッパ世界が拡大とともに激しく動揺する間、イタリア・ドイツ(ハンザ)の中世自治都市から、フランドルやオランダにおける過渡期の都市を経て、イギリス・フランスの近世国家的都市(首都)へと、繁栄の中心がヨーロッパを慌ただしく駆け回ります。
 とりわけオランダが、中世の都市単位的な世界と近世の中央集権国家の中間に位置するかのような州単位の連邦国家であり、アムステルダムもまた、中世的自治都市の面影を留めつつ、近世国家的都市の色彩が鮮明であったという指摘。中世から近世への橋渡しを担い得たと同時に、それゆえに内包されていた限界のようなものを、オランダとアムステルダムという国家と都市の関係に見て取れる気がします。
 著者の関心の目は、自らが専門としたイギリスを含む西洋世界だけでなく、日本にも向けられます。私たちにとって身近ゆえに無意識に受けとめてきた日本の都市を西洋側から眺めてみることで、その発達を促し、あるいは制約してきたさまざまな条件や特徴がより明瞭に浮かび上がってきます。一例として、わが国では、まず大規模の都城が政治的理由により出現し、それが都市発達の機縁となったとする捉え方も、それとは対照的な発達をみた西洋との比較の視点があってこそ、着眼の対象となり得たのではないでしょうか。
 本書の初版が刊行されたのは1951年ですが、半世紀後の2001年に新装復刊され、巻末で解題者が「都市論の古典」と称するように、今後も読み継がれていくに違いない名著だと思います。言い回しや歴史用語、地名などに旧い表現が残されている点にやや注意が必要ですが、都市という視点に立つことで、歴史が今までにない新鮮さを帯びて浮かび上がってくることを教えてくれる本です。

(長久手キャンパス図書館 笹野)


 

『口語訳古事記 : 完全版』 [請求記号:913.2//70]

三浦佑之訳・注釈 文藝春秋 2002年

 昨年の式年遷宮などで、「出雲大社に行きたい」「出雲大社に行ったよ」という声をよく聞きます。出雲は神々が集まる地と言われます。今回紹介する「口語訳 古事記」は、日本の神話の世界に、ちょっと手軽かつちょっと本格的に触れることができる不思議な一冊です。
 古事記は、その序によると天武天皇の命を受け、稗田阿礼が「誦習」したものを太安万侶が編纂し、元明天皇に献上したものだとされています。国文学者である本書の著者は、古事記がそうした書物として成立する前の世界で、「古事(ふること)」を支えていた人々の「語り」に注目し、ひとりの古老に物語を語らせます。

 「なにもなかったのじゃ……、言葉で言い表せるものは、なにも。あったのは、そうさな、うずまきみたいなものだったかいのう。」

 本書はこのようにひとりの古老の語りで始まり、続いていきます。言葉の流れとリズムが心地よく入ってきて、ちょっと手軽に神話の世界に入り込むことができます。同時に古老が語る横では、著者が研究に基づいた神話の世界をちょっと本格的に解説してくれます。古老の語りと著者の解説を通して、古事記の世界がより近くより深く感じられることと思います。
 古事記が語るのは出雲の神々の話だけではありません。日本創始から続く各地の神々の話もあります。長い夏休みの間に、神話の世界を旅行する、というのもひとつの思い出になるのではないでしょうか。

(長久手キャンパス図書館 民家)