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2015年9月の5冊


 

 

『ファーブル昆虫記』(全10巻) [請求記号:080/919-1〜9, 920/22J]

 J.H.ファーブル著 山田吉彦・林達夫訳 岩波書店(岩波文庫) 1993年

 ジャン・アンリ・ファーブル(1823-1915)は、フランスの生物学者で、詩人、音楽家でもあった人物です。でも、彼の名前は、何と言ってもその代表的著作の『昆虫記』によって、たいへんよく知られています。原著は1878年に第1巻が出版されてから1907年まで30年かけて全10巻が刊行されました。彼は優れた観察眼と洞察力、そして、何よりも忍耐心を持って昆虫の行動を観察し続け、しかも、豊かな文章力でそれらを『昆虫記』にまとめ上げました。ベッコウバチやセンチコガネ(フンコロガシ)など、様々な昆虫の生活が活き活きと描き出されて、読者の心をぐんぐんと惹き付けていきます。その動物行動学や昆虫生態学への貢献は計り知れないものがありますが、彼は同時代の時代状況のなかでは、反進化論者の一人でした。動物の化石や標本箱に並べられた死んだ昆虫たちの形態を眺めて、単純なものから複雑なものへ「進化」したのだと説明する「進化論者」を、彼はこっぴどく批判し、生き物は生きているときの姿、その行動や生態から語るべきものだと主張しました。でも、同時代人であったイギリスのC.ダーウィンは、彼のことを高く評価していました。私が『昆虫記』全巻を読み切ったのは、大学院修士課程の頃です。彼の執念ともいえる詳細な観察、分析とその丹念な記述に大きな刺激を受け、私の修士論文も詳細な記述で大部となって、審査委員の先生方を困らせることになってしまいました。

(学術研究情報センター長 中島茂(日本文化学部歴史文化学科))

 

『グリード』 [映像資料] [請求記号:DVD//1188]

 エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督 アイ・ヴィー・シー 2004年(1924年公開)

 エリッヒ・フォン・シュトロハイム(1885-1957)という天才が、かつてハリウッドの映画界に君臨していました。
 いかにもドイツ人風な容貌に、威厳に満ちた、尊大ともいえる立ち居振る舞い。おまけに、名前には貴族を表す「フォン」の称号。なるほど、単なるブラフではない、いずれ高貴な出自の故かと人々は納得。当時、歴史の浅いアメリカには、由緒あるヨーロッパ貴族の血統へのコンプレックスもあったでしょう。オーストリア貴族にして称号はノルトヴァル侯爵。士官学校卒業後、恋のさや当てから決闘沙汰を引き起こし、皇帝の勧めもあって、祖国を出てアメリカへ渡った。それが自ら語ったプロフィールでした。
 映画創生期のハリウッドにもぐり込んだシュトロハイムは、やがて監督となり、サイレント映画の不朽の名作を次々と世に出します。しかし、その妥協のない完全主義のため、膨大な製作費の超過を引き起こして映画会社と衝突、他社へ移ることを繰り返します。リアリズムを追及する彼の美学では、なによりセットは小道具に至るまで本物でなければならない! 役者の演技は完璧でなければならない! モンテカルロのカジノや貴族の館をそっくりスタジオに再現さたり、召使のノックの音が気に入らず何十テイクも撮り直す、等々。(サイレント映画ですよ、念のため。) 度を超えたこだわりや浪費にも、やはり貴族の血は争えませんね、と関係者は得心し結局しぶしぶ従います。
 現在、彼の本当の出自が判明しています。「本名エリッヒ・オズヴァルト・シュトロハイム。オーストリア系ユダヤ人。父親はウィーンの貧しい帽子職人。」 現実は残酷です。草創期のハリウッドには、世界中から夢を求めてやって来た、そうした「自称」王室に列なる者や貴人の落とし種たちがいたのでしょう。映画の都は、銀幕の中にも似て、まさに虚実を問われない夢の世界でした。
  『グリード』では、思わぬ大金を手にしたことで、善良な普通の主人公たちが、人間の持つ業である貪欲(=Greed)に目覚め、捕えられ、その人格を蝕まれ、獣めいた存在へと堕していく。そのグロテスクな変貌ぶりが、これでもかこれでもかと偏執狂的なまでに描かれます。その背後には、監督・脚本・美術・役者を兼ねる才人シュトロハイムの「人間とは所詮こんなもの」という諦観も見え隠れします。彼のリアリズム追及はここでも遺憾なく発揮され、アパートの場面では実際に出演者にそこに住むことを要求したり(リアルって、そういうこと?という疑問も若干残りますが)、クライマックスのネバダ砂漠デス・バレー(死の谷)での決闘シーンでは、灼熱のロケを敢行し、スタッフに死者まで出ます。シーンからも、その救いのない暑さと渇きがヒリヒリと痛いほどに伝わってきます。どうにもやりきれないこの映画が、なぜ観る人をぐいぐい引き付けて止まないのか、なぜこれほどまでに面白いのか、それは結局、映画という表現に対するシュトロハイムの執念と真摯な創作態度に尽きると言えるでしょうね。

(長久手キャンパス図書館 荻田)

 

『宗教都市と前衛都市 : 隠された日本 大阪・京都』 [請求記号:361.42/I91]

 五木寛之著 筑摩書房(ちくま文庫) 2014年

 著名な作家による大阪論・京都論です。「大阪=宗教都市」、「京都=前衛都市」は、それぞれに対する一般的なイメージからすると意外な感じがしますが、本書を読むと、実は「宗教都市⇔民主体の商都」、「前衛都市⇔千年の古都」の関係にあることがわかります。
 例えば大阪については、豊臣秀吉によって建設された大坂城と城下町が直接の起源であるせいか、その下に埋もれてしまった石山寺内町が注目されることはあまりないようです。中世末期に蓮如によって上町台地の北端に築かれ、やがて織田信長によって滅ぼされる石山本願寺と寺内町。この一大宗教都市の内外をヒトやモノが自由に流れていたことを描いたくだりを読むと、確かにここにこそ商都・大阪の原型があったのではないか、そう頷かせるだけの迫力があります。

(長久手キャンパス図書館 笹野)

 

『遊ぶヴィゴツキー : 生成への心理学』 [請求記号:140.1/H83]

 ロイス・ホルツマン著 茂呂雄二訳 新曜社 2014年

 9月になり、夏休みも半分過ぎるころです。学生のみなさんは、どんな夏休みを送っていますか。長い夏休みです。新しいバイトを始めたり、短期留学に行く人も居ると聞きます。新しい環境に身を置くと、いつもと違う自分が顔を出し、考え方や振る舞いが変化することがあると思います。そうした行動の中に、実は人が学習すること、発達することがあると今回紹介する本の著者、ホルツマンは考えています。
 ホルツマンは大学院で発達心理学や言語学を修得したのち、あえて大学の研究施設に留まらず、多くの一般の人々の中に混じり、人間の発達について研究を進めたそうです。彼はロシアの心理学者であるヴィゴツキーの理論を用いて、発達に関する様々なアクティビティーを学校や福祉施設や、果ては民間企業で行いました。この『遊ぶヴィゴツキー』は研究書でもありますが、彼が研究と関連して行ってきた様々な「遊び」の記録でもあります。
 幼児の遊びについてヴィゴツキーは、「想像の世界、想像の場面の行為、自発的な意図の創出、実際の生活におけるプランや意識的動機、これらすべてが遊びにおいて現れ、就学前の発達の最高峰を達成する」(p.76)と指摘しています。幼児はごっこ遊びなどを通して、想像の世界をつくり、考え、周囲の人間を真似ることで、実際の生活ではできなかったことを、次第にできるようにしていきます。さらにこの発達には「より有能な仲間と協働する」ことが必要だとヴィゴツキーは指摘しました。ホルツマンは、この点に注目し、大人の発達やソーシャルセラピーにもこの「遊び」を取り入れていきました。
 例えば、学校の歴史の授業での「なりきり遊び」では、歴史の人物になりきる遊びを教室でやってみます。生徒たちはグループで役作りをする中で人物への理解を深め、それぞれの役同士が関わることで、その時代についての知識を深めていきます。仲間と協働して新しい環境を作り出し、新しい役割を演じること。その中に人の学習や発達をみることができるとホルツマンは言います。

(長久手キャンパス図書館 民家)


 

『先生、巨大コウモリが廊下を飛んでいます!』 [請求記号:481//239]

 小林朋道著 築地書館 2007年

 大学に生き物はつきものです。特に田舎のキャンパスには様々な生き物たちが生息していたりします。県大にも猫をはじめ、鳥、毛虫、ミミズ、etc.が出没しますね。
 著者の小林教授が勤める公立鳥取環境大学は、河川、池、緑に囲まれた自然豊かなキャンパスです。この本ではキャンパスで巻き起こる生き物たちとの珍騒動が描かれています。タイトルを見ると、巨大コウモリから学生たちが逃げ戸惑い、教職員が必至に捕まえようとする恐ろしい状況が目に浮かびます。しかし著者はそんな状況を「すばらしい」と感じてしまうのです。他にも研究室で飼育されていたヘビとハムスターの脱走事件など、興味をそそる事件が目白押しです。また、人間・動物行動学が専門の著者らしく、生き物と対峙した時の人間の脳反応も記されています。例えば愛着の湧いた生き物に名前をつけたくなるのも、社会的な関係をしっかりと把握する為の人間に備わった脳の戦略だとか。県大の猫に様々な名前がついているのも頷けます。
 面白いながらも、生物・自然との共生を考えさせてくれる1冊です。ぜひ、巨大コウモリの行く末を読んでください。

(長久手キャンパス図書館 渡邉)