教員推薦本 ・『フェルマーの最終定理』 サイモン・シン著 青木薫訳
・『暗号解読』 サイモン・シン著 青木薫訳
・『もう牛を食べても安心か』 福岡伸一著

 

 

『もう牛を食べても安心か』 [請求記号:649//153]
福岡伸一著 文藝春秋 2004年

 3・11、途方もない災厄が東日本の太平洋沿岸部を襲いました。たくさんの死者・被災者に、本当に心が痛みます。ただ、日本は地震列島で、古くから大地震は繰り返されてきましたから、ある意味でこれは「想定の範囲内」の出来事とも言えます。しかし、福島第1原発事故、これはまさに未曾有(みぞう)(未(いま)だ曾(かつ)て有(あ)らず)の出来事です。(と言っても東京電力が繰り返す「想定外」というお粗末な弁解を認めるつもりはありません。念のため。)
 放出された膨大な量の放射性物質が今後長期にわたってどのような影響を与えるのか、必ずしも予測が十分立つわけではありません。なぜなら原子力の分野はあまりに歴史が浅く(まだ100年余り)、放射線が人体・生物にもたらす影響について、科学的知見の蓄積が十分ではないからです。発癌性などについても、研究者によって見解にずいぶん幅があります。チェルノブイリ事故から四半世紀たった今、半減期が30年という放射性物質(セシウム137)の影響で甲状腺癌に罹る「チェルノブイリ・チルドレン」(事故発生直後に誕生した人たち)が現れているとのことです。内閣官房長官の「直ちに人体に影響はない」という言葉が思い合わされます。確かに、直ちに、はね。
 そのような分野に関わる事故ゆえ、最悪の事態を想定したときの不安というのは何ともコントロールしがたいものです。私は、自宅が東京にあるため、原発事故の状況悪化がどこまで進むか分からない不安の中、3月中旬、2歳の娘を大阪の実家に避難させました。あとで知ったことですが、同じような行動を取った知人・友人がたくさんいました。その中には、大手メディアで働く人たちも含まれており、十分モニターできていない事態について「大丈夫、大丈夫」と政府発表を垂れ流すマスメディアの「大本営発表」ぶりを再認識した次第です。
 東京では水道水の問題も起こりましたが、水や食べ物という生存の根幹に関わるところで不安が生じ、特に小さい子どものために何をすべきか、何をしてやれるか、いろいろ頭を悩ませずにはいられない日々がずっと続いています。そんな中、先月の「今月の5冊」で、中西準子『食のリスク学: 氾濫する「安全・安心」をよみとく視点』が紹介されているのを見て、タイミング的に「ちょっとこれは」と思わずにはいられませんでした。
 この本は、私も面白く読んだ本で、いろいろと教えられました。ただ、リスク論は、基本的にリスク計測が可能なことがらについてのみ有効です。今、私や多くの日本人が頭を悩ませているであろう放射性物質にまつわる不安は、人知が十分に飼い慣らしていない分野のことがらゆえに生じているわけですから、リスク論では対応できません。
 そこで、『食のリスク学』と併せて読んで欲しいと私が思う1冊がこれです。この本の中で著者は、フグ毒と狂牛病病原体を比較して前者の方がリスクが大きい(これ自体は事実)から狂牛病に大騒ぎすべきではないというリスク論的議論について、《ここで驚かざるを得ないのはリスク分析思考が不可避的に体現しているある種の感性の欠如だ。それは政治的なものが示す感性の欠如と同種のものである。歴史性や原因をすべて捨象して死者の数を比較する。ここにリスク分析の本質が如実に現れている。》と述べています。
 ポイントは歴史性ということです。続けて筆者は次のように述べています。《フグ毒で死ぬ人と狂牛病で死ぬ人は同じではない。これは実質的に同等ではない死者である。フグはある意味で時間の試練をくぐり抜けて私たちに納得されたリスクである。対して狂牛病は人災であり、人為的な操作と不作為によって蔓延した、全く納得できないリスクなのだ。》
 ここで述べられていることは何もフグと狂牛病との話に限りません。狂牛病のところにいろいろな言葉を代入することができます。
 分子生物学者として〈動的平衡〉をキーワードに食の問題を見据える著者の議論を平易簡潔に示したものとして、『生命と食』(岩波ブックレット、2008年)もおすすめです。

(日本文化学部国語国文学科 山口俊雄)